裸の健役、五十嵐明。「裸の健」は「少年山荘」において、常に非常に重要な位置を占める。
彼はなぜハダカなのか。それを考えながら見ていただきたいのだ。
「裸の健」は自由人である。自由な分だけ、その代償として様々な傷を持つ。
だから傷の分だけ優しいのだ。
この役は役者の創造性・技量に依存するともいえる。
「裸の健」は五十嵐さんによって、どれほどの広がりを見せるのだろうか。

思えば、研究所では一期先輩の彼とは、数々の因縁があるのだ。

僕が鐘下辰男さんの「塵の徒党」というワークショップで学んでいるときだ。
彼はTHEガジラ公演「汚れちまった悲しみに」の中原中也の役であった。
この役は、以前、檀さんがやっていた。
彼は、自分だけの中原中也像を必死に求めていた。
文字通り、血反吐を吐くように台詞を吐いていた。
稽古場外でも凄まじい殺気を漂わせ、誰も寄せ付けないオーラがあった。
怒鳴り続け、声がかすれ、本番直前、声が出なくなってしまった彼を、恥ずかしながら僕はただ近くで見ている傍観者だった。

そんな時だ。僕らは些細なことで喧嘩をした。
たしか売られた喧嘩だと思うが、理由はよく覚えていない。
僕が役者の夢を捨て、エンゲキの世界から離れてウン十年。
エンゲキから離れてはいたが、どうしても悔しかったので、代わりに劇作の真似事を書いた。
それらは全て彼に見せた。
数年前のある日の昼下がり。三軒茶屋の交差点で受けたその電話は突然だった。
「あのホン、やってみたいんだけど、いいかな? 」
それが、青年座スタジオ公演で実現していただいた「ノーマンズ・ランド」(2005年)だ。
再び、彼から電話があったのは、池袋駅前の交差点を車で走っているとき。
「以前書いたホンもあるでしょ。それ、文化庁の劇作賞に応募してみなよ」
文化庁? 劇作賞? そんなものが世にあるのか…まあ、とりあえず応募だけしてみるか、と軽い気持ちで送ったのが運良く佳作を受賞できた2004年度「赤い大地の上に立ち」だ。
残念ながら舞台化には至らなかったが、こうして「少年山荘」で実を結んだわけである。
ゆえに、五十嵐さんからの二本の電話がなければ、間違いなく、僕は一生エンゲキ界から縁遠い世界にいたわけだ。

裸の健昔、なにかで読んだのだが(青年座公演のパンフレット?)、彼を称して「五十の嵐」と形容した人がいた。
僕もそれに全く同感だ。
つい先日、飲んだ席で酔って吠えまくる彼を見た。
相手は超がつくほどの大御所である。
その時の彼は相変わらず大人ではなかった。
だが、そんな彼こそが「五十の嵐」なのだ。
君と接続可能なたったひとつ。それが「劇的なる」青年座という名の交差点だ。
君は天使か悪魔か? それは未だにわからないが「五十の嵐」よ。
飲み過ぎは体に悪いぞ! 
やっぱり電車があるうちに家に帰ったほうがいい!
タクシー代、もったいないだろ!



尾崎太郎