0028b54a.JPG 日本を発ってはや半年になろうとしている。こちらの生活にも随分慣れたように思う。学校中心の生活で、なかなか見聞を広めるという訳にもいかないが、そんな中で気付いた事を少し書こうと思う。
 巴里は不思議な街だ。最先端の大都市なのに時間の流れがゆっくりに感じられる。昔ながらの建物や町並みが残っているせいもあるんだろうが、何と言ったら良いのか、そう下町っぽいんだな。住んでいる地域が下町ってだけじゃ無く、巴里には下町っぽい生活感が至る所に感じられる。小さなお店が元気にやっているし、チェーン店みたいな店も少ない。カフェも日本の喫茶店なんかより気楽な空間だ。日本の喫茶店に比べたら騒がしいし、煙だらけなんだけど、勝手が利く。店員なんか少なくて家族だけでやってたりするんだけど、クラスの後、大人数で行って勝手にテーブルとか動かして場所作っても何にも言われない。一人や二人「何にも要らない。」って言っても何ともない。皆、外で買ってきた物食べてるし、日本の喫茶店じゃ考えられないでしょ?気取ってないんだな、きっと。
 週末にはパーティが頻繁に開かれる。バーだったり誰かの部屋だったり、とにかく毎週のようにパーティのお知らせが掲示板に貼られる。誰かの部屋でやるホームパーティには驚かされる。巴里のアパートは狭いし、学生が借りるような部屋だから六畳が二間とか十畳一間位なんだが、そこに三十人くらい集まって真夜中まで騒いでる。日本だったら警察呼ばれるだろうなと始めは気が気じゃ無かった。皆それぞれワインやなんか持ち寄りでやるから金がかからなくていい。バーでやる時も皆夕食を済ませてから集まって、一杯づつ払って飲む。ツマミなんて無いから三千円もあれば一晩中飲んでいられる。おごるって習慣自体が無いし、年上が多く払うなんてことも無いから本当に安く済む。喋るのがメインだから日本みたいにガブガブ飲まないし。大体パーティって言っても「何処の何てバー」って誰かが決めるだけで予約とか貸切じゃ無いし、開始時間に絶対に集まらないし、好い加減なんだ。うん、気張ってないんだ、きっと。
 メトロの駅も面白い。駅の通路の決まった場所に沢山のミュージシャンがいる。一人でギターを弾くスペイン人、竹笛を吹くペルー人、七、八人の大所帯で演奏するアルゼンチン人だろうか?本当に多くのミュージシャンに出会う。電車の中にもギター持ち込んで来て、三駅位の間演奏して往復している人もいる。始めは驚いたし煩いと思ったが何だかのんびりしてるんだな、知らずに微笑んでいる自分に気付く。メトロの駅には駅員なんて一人もいない。切符売り場には人がいる時もあるが、改札通ったら誰もいない。エスカレーターが止まってるなんて日常茶飯事だし、日本の方がバリアフリーも進んでると思う。で、ベビーカーとか、階段やエスカレーターでどうするかっていうと気付いた人が一緒に持ってやる、当然のように当たり前のこととして助けてやる、それだけだ。何度かそんなお母さんとベビーカーを持ったが「メルシーボクー」と言われて、何だかとっても良い気持ちがした。鞄がキチンと閉まっておらずメモ帳を落とした、青年が五十メートル位追いかけてきて渡してくれた事もあった。巴里は下町のような、生活感がある、人の呼吸が感じられる街なんだ。
 日本を離れて半年経つ、日本はサービスの行き届いた、常識ある、礼儀正しい国だ。しかし何だか忘れ物をしてきた国のように思う。行き過ぎのサービス、それが当然になって忘れられた寛容、鷹揚。押し着せの常識とそれから外れた者への蔑視。個人ばかりが強調されて、見ることが久くなった人に対する親しみや気軽な挨拶。上手く説明出来ないが、いろんなことを整え過ぎると日本は“子供の国、生活感の無い、人の呼吸の感じられない、わがまま勝手がまかり通る国”になってしまうんじゃないかと思っている。

大家仁志

※この文章は青年座通信4月号に掲載したものです。